Chemin du Gastronome
Les gagnants du Prix Taittinger Japon
コンクール・テタンジェの覇者たち

【第1回・前半】 堀田 大 シェフ

Monsieur Hiroshi Horita

料理人の総合力が問われる最高峰の料理コンクール「<ル・テタンジェ賞>国際シグネチャーキュイジーヌコンクール」。

このたび、その日本大会での優勝者の方に当時のお話や料理人を目指すきっかけなどをフランクにお伺いしたインタビュー記事を掲載する事といたしました。その記念すべき第1回目は堀田大シェフです。

堀田シェフは、1984年<第2回現代フランス料理技術コンクール>にて優勝し、日本代表としてパリで開催された「第18回ピエール・テタンジェ国際料理コンクール」(当時のコンクール名称)に出場し、そして日本人として初めて第1位に輝きました。

現在は「堀田ムッシュ」と呼ばれ皆様に慕われている堀田シェフ。パリ本選の当時の様子などをお伺いすることができました。


まずは、なぜ料理人を目指そうと思ったのですか?

「それは、料理人になれば誰とも話さずに仕事ができると思ったからだよ(笑) 高校生の時にそう思ったんだよね。」

なぜ、料理人でもなぜフランス料理の世界に?就職当初は何が大変でしたか?

「高校を卒業した後、知人の紹介で東京の西洋料理の東洋軒に入社したからだよ。【東洋】なんて名が付くから最初は中華料理のお店だと思っててさ(笑)。当時は精養軒、中央亭、東洋軒が西洋料理で有名で、宮内庁の仕事もしてたんだよね。

僕が最初に洋食で感動したのは、東京オリンピックの翌年に修学旅行で東京を訪れた時だった。銀座の日劇の前にカフェがあって、そこで食べたナポリタンが美味しかったんだよね。こんなに美味しいものがあるんだなと思ったよ。当時、故郷竹田にはカレー、ハヤシライス、ポークソテー、オムライスくらいしかなくて。スパゲティなんてなかったんだよ。

その後東京に就職する時にラグビー部の先生が県庁所在地の大分まで送ってくれて、当時大分県で一番おいしいと言われたレストランでグリルチキンをご馳走してもらったのも美味しかったんだよね。

そんな状況で西洋料理の料理人として入社したから入ってからは大変だったよ。メニューもすべて横文字、フランス語でびっくりしたよ。英語も不得意だったし(笑)。最初に覚えたのは「パプリカ」。パウダーのパプリカね。オニオンだ、エシャロットだと言われてもさっぱり意味がわからなかった。あとは『ソース』と言われても『とんかつソース』しか知らないから、『ソース』がこんなにあるとはとびっくりしたよ。カレーも『ソース』だなんてさ。

そして東京に出て1年後、大分に帰ったときに同じレストランでグリルチキンを食べたら美味しくなくて。やっぱり美味しいものを食べないと、人間の舌は美味しいものを覚えないよね。」

コンクール当時のことを楽しそうに語ってくださる堀田シェフ

コンクールを受けたのは入社してどのくらいですか?なぜ受けようと思ったのですか?

第1回現代フランス料理技術コンクール(主催:フランス文化を識る会)」に応募したのが35歳くらいの時だったかな。

入社後、20代後半で1年半フランスのアルザスで修業して、帰国後もひたすら結婚式の宴会料理を主に作っていて、街のレストランやホテルの人たちはどんな料理を作るのかな?自分の料理は世間に通用するのかな?と思ってね。

その前にドラヴェーヌシェフの講習会(フランス文化を識る会主催;現代フランス料理技術特別講習会)にも参加したことがあって、生きてるウナギの皮を剥いたりとビックリしたことも思い出すね。鴨のスフレの講習もあり・・・そしたら、鴨のスフレはこのコンクールの課題にもなってたよ。

まずは1次予選で筆記審査があって、フランスの食材についての知識も必要だったね。コンクールの実技審査はホテルパシフィックの厨房。もう一つの課題だったシャンパーニュのソルベが固まらなくてね。午前中に作った人は固まったんだけど、午後のみんなは誰も固まってなかったよ。ソルベを作る機械は家庭用で小さいし、なんせ会場も暑くてね。どうやって審査したかは僕にもわからないよ(笑)

この第1回目のコンクール、審査員にドラヴェーヌシェフも来日していて。挑戦者には今も日本で活躍しているシェフたちがいたよ。僕は決勝には残ったけど、最終的には入賞はできなかった。そして、その4年後の第2回のコンクールとき、本当は東洋軒からは他の人が応募する予定だったんだけど、僕が出たそうな顔をしてたみたいで料理長が君も参加していいよと許可が出てそれで出場できたんだ。」

この第2回のコンクール課題はどんなものでしたか?

第2回のコンクールは同じく1次予選で筆記審査があって、決勝では『ラ・プーラルド・アレキサンドラ~雌鶏のアレキサンドラ風』が課題。8人が決勝に残ってたかな。今と同じやり方でくじを引いて調理場審査の順番を決めて。フランスからはリュシアン・オージエ(当時のテタンジェコンクールの審査員長)シェフ他2人が来日して審査員を務められていてね。日本からは小野正吉さんたち。本当はプリンスホテルのシェフも審査員でいたんだけど、決勝にプリンスホテル勤務の人が残ったからね、審査員から外れたんだよ。公正な審査だよね。

調理場には審査員が入ってくることもなく、フランスと同じように厳格な審査をしていたのが印象的だったよ。それまでは日本のコンクールは、審査員が調理場に入ってきて『ああでもない、こうでもない』って言ってきてたんだよね。

ディプロムを受け取る堀田シェフ(左奥はリュシアン・オージエシェフ)

インタビューの後編は、日本大会に優勝したあとのパリ本選の様子やコンクール後の想い、これからコンクールを目指す若手料理人へのメッセージをお届けします。

トップ画像:エマニュエル・テタンジェ氏よりディプロムを受け取る堀田シェフ

◆堀田 大 シェフ

1947年大分県竹田市出身   市民栄誉賞受賞

株)東洋軒常務取締役総料理長、総支配人を経て、平成13年株式会社マンジュトゥーを設立、代表取締役社長。第二回フランス料理技術コンクール(ホテル・オークラ)、第18回ピエール・テタンジェ国際料理コンクール(パリ)など多くのコンテストで優勝。(社)エスコフィエ協会、副会長、フランス料理最高技術者協会名誉賞受賞(フランス)バーテルクラブ名誉会長(ニューヨーク)(社)全日本司厨士協会 最高技術顧問、アカデミーキュリネール会員(フランス)、トック・ブランシュ国際クラブ理事/ 事務局長、<ル・テタンジェ賞>国際シグネチャーキュイジーヌコンクール日本大会審査委員長、厚生省・労働省の調理技能評価試験試験委員などを歴任し、料理人として美味しい料理を提供するだけでなく、後進の育成や地域の食育活動など料理の分野で幅広い活躍を行っている。

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