Chemin du Gastronome
Les gagnants du Prix Taittinger Japon
コンクール・テタンジェの覇者たち

【第5回・後半】 堀内 亮 シェフ

Monsieur Ryo Horiuchi

料理人の総合力が問われる最高峰の料理コンクール「<ル・テタンジェ賞>国際シグネチャーキュイジーヌコンクール」。

日本の優勝者にインタビューをする第5回目は、2020年「第54回<ル・テタンジェ賞>国際シグネチャーキュイジーヌコンクール日本大会」で優勝し、2度の延期を経て、2022年5月のパリ本選でも見事優勝された堀内亮シェフです。現在は福井にあるレストラン「ル・ジャルダン」料理長として活躍されています。

後編では、ハプニング続きだったという料理人人生を振り返っていただきました。(前編はこちら


料理人を目指したのはいつですか?

「高校卒業するくらいですかね・・・・」

目指すきっかけはありましたか?

「なんとなく・・・です。そもそも僕は京料理をやりたかったんです。」

堀内さんは京都出身でしたね。

「はい。伏見で生まれ育ちました。高校卒業後に進学した京都調理師専門学校での2年間は、西洋でも日本料理でも中華料理でも、どれでも進めるようなコースにいたのです。一通り勉強はしました。もう他の料理は覚えてないですけど(笑)。フランス料理に進んだのは担任教員が帝国ホテル「レ・セゾン」出身の方だったので、その影響があるかもしれません。あとは和食の実習が全然楽しくなかったんです。だし巻き卵を作るよりオムレツを作るほうが楽しかったです!」

そして、フレンチの道へ進むことになったのですね。

「はい。専門学校では、1年目に2週間、2年目に1か月のレストランでの現場研修がありました。1年目は大阪の『ジャマン』というレストランへ行きましたが、厳しく指導してくださるシェフで・・・勉強途中の僕には辛かったです。休憩もままならず・・・。
2年目は、担任の先生に『フレンチやりたいなら東京へ行け。自分でアポを取ってこい』と言われて、まず、Yahooで『東京 フレンチ』を調べました。一番上に『ロオジエ』が出てきたので、じゃあここだ!と思い、自分で電話をして研修をお願いしました。1か月行ってきましたが『ロオジエ』も大変でした。朝6時にはもうスタッフは仕事を始めていて、いつも満席のお店でしたので『めっちゃしんどいな。現場ってこんな感じなんだな』と思いました。ちょうどその頃ジャック・ボリーシェフが東京の3つの指に入るフレンチレストランのシェフとしてテレビに出演されていてすごいなと思いましたし、僕は東京の情報を全く知らなかったということもあり、ぜひここに就職したいと思ったのですが『新卒はとらない』と断られてしまったのです。」

それは残念でしたね。他のお店を見つけられたのですか?

「はい、それでも東京に行きたいと思い『パッション』に就職が決まったのです。でも配属されたのは姉妹店の『プチ・ブドン』。最初から調理に入れてもらえるはずだったのに、ホールをやることになりました。『なんか話が違うなぁ』と思ったのですが、頑張ろうと思ってホールの仕事をしましたよ。そして就職して2か月ほど経ったときに1本の電話がありました。」

その電話とは?

「ロオジエの山下泉シェフから『一人空きが出たからうちに来ない?』という電話だったのです。パッションシェフをはじめ皆様に止められたのですが、(ロオジエに行きたいと思ったら)もうそれしか見えなくなってしまって・・・。説得して辞めさせてもらい、6月過ぎには『ロオジエ』で働き始めました。」

念願の『ロオジエ』に就職できたのですね!

「そうなのですが、その3年後にビルが消防法に引っかかるということで建て替えるために一度閉店することになったのです。ギリギリまでスタッフには知らされていなくて、聞いたのは一時閉店の半年前でした。」

いきなり閉店を知らされて困りましたね。

「でも、それならフランスに行こうかなと思いました。ロオジエの当時のブルーノ・メナールシェフがブルターニュ地方でレストランを開くということで、一緒にフランスへ行くことにしたのです。」

フランスでの生活が始まったのですね。

「はい。ですが、ブルーノシェフと渡仏して1週間で、新しく開く予定のレストランのパトロンが『やっぱりお金は出さない』と言われて、いきなり無職になりました(笑)。」

それはどういうことですか?開店準備などはしていたのではないですか?

「シェフがブルターニュ地方のDinard(ディナール)という街の、崖の上にある小さいシャトー(城)をもう購入してたのですよ。そのシャトーの中をリニューアルする間はそのパトロンが持っている小さなホテルのレストランで働いていたのですが、1週間もしないうちに、シェフと一緒に朝ご飯を食べてるときに『この話はなくなりました。』と言われて・・・フランス語も話せないのに、いきなり無職ですよ。かなり精神的に辛かったです。」

1週間だけ働いたホテルのスタッフと共に

そしてどうされたのですか?

「そこから半年・・・4か月くらいかな?ガレット屋さんで働きました。シェフが紹介してくれたのです。その後、マンダリンオリエンタルパリのティエリー・マルクスシェフとブルーノシェフが昔一緒に働いていたというご縁で雇ってもらえることになってマンダリンオリエンタルパリに就職しました。でも、それもマルクスシェフが一人で決めたことだったようで、僕が入社することをスタッフは誰も知らなかったのです。初めてレストランへ行ったときに挨拶をしたら『え?お前誰?キッチンはもういっぱいだよ』って言われて・・・半年間ほどパティシエやらされました(笑)。そしてワーキングホリデーのビザが切れたので、帰国しました。」

日本に帰国後は?

「日本に帰国して、マンダリンオリエンタル東京のレストラン『シグネチャー』で働き始めたのですが、そこでも『パリでパティシエやってたんだろ?』と言われて1年くらいパティシエをしてました。フランスにまた戻りたくてもなかなかビザがおりなくて、居酒屋でアルバイトをしていた時期もありました。そして、ある日突然ビザが下りて、またフランスへ飛んだのです。そのあたりまでは、本当にハプニングだらけで・・・今思うとおもしろいなと思うのですが(笑)。」

かなりいろいろありましたね。よくめげなかったですね。

「フランスへ行ってすぐに無職になったときは、本当に帰国したかったです。泣きましたよ・・・まだ23歳でしたし。」

それは泣きたくなりますね。

「しかも、僕は何もわからないで渡仏したので・・・変圧器とかも知らなかったんですよ(笑)。持参したのは変圧器ではなく、プラグの形を変えるものだったので、充電しているうちに日本から持っていった携帯電話も壊れてしまい、誰とも連絡が取れなくなって・・・当時はまだガラケーでしたし。」

そんな経験をしながらもビザが下りて再びフランスへ。最初はマルクスシェフのお店でまた働いていらっしゃいましたが、その後レジス・マルコンシェフのお店に移られたのはどうしてですか?

「いつかは帰国してまた日本で働こうと思っていたのですが、その前に本場フランスの三ツ星レストランを経験してみたいと思い、いろいろなところを食べ歩いて研修先を探したんです。そんな中マルコンシェフのレストランでお食事した時に『ここだ!』とピンときて、お食事後にシェフを呼んでいただき、履歴書を渡してここで働かせてほしいと直接お願いをしたのです。」

いろいろなレストランを食べ歩いたとのことですが、何軒くらい行かれたのですか?

「3つ星レストランを6軒くらいは行ったと思います。履歴書を携えながら!」

その6件目がマルコンシェフのレストランだったのですね!決め手を教えていただけますか?

「料理が一番美味しかったのです!それと、シェフが営業中にも関わらず各テーブルに挨拶に回られたり、料理を運んだりしているのを見て、かっこいいなぁと思ったのもあります。『レジス・マルコン本人だ!!』と気分が高まったのもよく覚えています!」

レジス・マルコンシェフのご子息、ジャックシェフと共に

行動力が素晴らしいですね!マルコンシェフの下で働いて、一番学んだことはなんでしょうか?

「ありきたりなのですが・・・マルコンシェフは妥協をすることが全くなく、その姿勢がものすごく勉強になりました。例えば、営業中にとても忙しくなり、サーヴィスが料理を取りに来られなくなったことがあるのです。そうすると、魚料理などがパスに2分くらい置きっぱなしになってしまうんですよ。それは全て作り直しになります。マルコンシェフが『もうこの魚は食べてほしい状態ではない』と言って。勘弁してくださいよって思ってました(笑)。」

その食べてほしい状態ではない魚は・・・?

「もちろん賄いになりました(笑)」

そして、日本へ帰国されました。ずっとフランスにいるつもりはなかったと以前仰っていましたが(以前のお話はこちら)、何かきっかけはありましたか?

「マルコンシェフのレストランの支店を日本に作るために帰国したのですが・・・コロナ禍に突入して、その話はなくなってしまいました。」

それは残念でしたね・・・。なかなか波乱万丈なフランス生活でしたが、ご両親はかなり心配されたのではないですか?

「いや、僕は両親にはあまり詳細を話してないので、フランスでのことは両親も知らないと思います。僕は末っ子でわりと自由に育ちましたし、フランスに行くときも『行ってくるね、もう決めたから』『え?どういうこと?』で終わりでしたし(笑)。」

今回のこの優勝、ご両親はとても喜ばれたのではないですか?

「それはもう喜んでました。祖母も『世界一や、世界一や!』と大喜びでした。」

自由に育ててくださったご両親の元だったからこそ、ハプニングがあってもフットワーク軽く動けるようになったのかもしれませんね!
ところで、中高生の時に何か夢はありましたか?

「中高生の時はバスケットボール部に入って頑張ってました。このままバスケを続けられたらいいなと思っていたのですが、そんな上手いわけでもなかったのでそちらの方向へは進みませんでした。自分自身のことを考えると、昔から僕ってものすごく負けず嫌いなんですよ。その世界で負けるのが嫌だから頑張るんだけど、でも、頑張りたくない自分もいたりして。なので、ある程度無難なところにいってその中で一番になるんですよ。
例えば、京都はバスケがとても強い学校が多いのですが、強豪校には行かず、そこそこのレベルのところへ行ってそこで一番になる、みたいな感じです。バスケに限らず、フランス料理をやるときも日本のトップクラスのレストランで一番になれば、日本で一番かなと思ったんですよね。まぁ、案の定全然通用しなくて・・・なので、ものすごく頑張ったんですよね。いろいろな世界的なレストランで学べば、そこで全部覚えればトップになれるかな、と。そう思って有名店で研鑽を積んできました。」

実力あるシェフの下で働くというのは、洗練された技術や味を覚えて、五感も磨かれていきますよね。

「僕もそう思います。まだ僕の料理もムラがあって・・・料理の出来にこれはいいな!と思う時もあれば、イマイチだなと思う時もあるのですが・・・僕の下で働いている人達はまだ若く経験が浅いせいなのか、この出来はあまりよくないということを伝えても『え?そうですか?』ってわからないんですよね。自分自身はやはりトップシェフの料理を間近で見てきたので、すごく自分には厳しくなってるんだなと思います。それは意識レベルが高いところで働いていたからこそだと最近は思うようになりました。素晴らしいシェフたちの下で働くことができて本当に良かったなと思います。」

素晴らしいシェフたちの下、どんなハプニングにも耐えて頑張ったからこそ今に繋がっているのではないでしょうか?

「そうだと思います。もう、本当に何度も辞めたいと思いましたよ。」

そこで辞めなかったのは負けず嫌いの性格からでしょうか?

「そうかもしれません。逃げたくなかったんですよ。」

今はどんなお気持ちで仕事をされていますか?

「今は料理長という立場で仕事をしていますが、まだまだだなと思うことがたくさんあります。ですが、僕の経歴を見てレストランへいらっしゃるお客様もたくさんいて『ロオジエにいらしたんですね。』『マルコンシェフのレストランで働いてたんですか?』『シグネチャーで働いていた時の料理長はどなたですか?』『テタンジェで勝たれたんですよね。』などなど・・僕としてはまだまだと思っていても、お客様はそうは見てくれないので、もっともっと頑張っていかなきゃと日々思っています。ただ、レストランはコンクールではないのでチームとしてみんなで頑張っていきたいです。」

コンクールは自分1人での戦いですよね。

「そういう部分もあります。ただ、テタンジェコンクールではコミと一緒にやったじゃないですか?そういう点は1人ではなかったです。コミの使い方だったり、コミュニケーションの取り方だったりというのがとても大事なんだなと気が付くことができました。」

※コミ・・・見習いの事。テタンジェコンクールでは学生がファイナリストに1人ずつ配置されます。

実技審査にてコミと共に盛り付けをする堀内シェフ

テタンジェコンクールの経験は今の仕事に影響していますか?

「はい、とても良い経験でした。僕が働いていたところはだいたい『見て覚えろ、気づけよ』『言わなくてもわかるだろ?』というところだったので、現場ではどうしても自分もそのようにしてしまいそうになりますよね。テタンジェコンクールで自分の指示を的確にコミに伝えた経験は、レストランでの仕事にとても役に立っています。」

コンクールを受けた経験は大事ですね!

「コンクールを経験することは一つの経験として大事ですね。そして、やはりタイトルは獲ったほうがいいです!僕は勝てたからこそ、あの時のあのコミとのコミュニケーションが必要だったんだなと振り返って気が付くことができました。負けちゃうとどれが原因だかわからないままだったかもしれません。フランス本選での審査後に審査員との懇談の時間もありますが、自分で気が付くというのも大事かなと思います。」

エリック・ブリファールシェフと堀内シェフ

若手の料理人の方々にメッセージをお願いいたします。

「今年は、前回チャンピオンとして審査員として参加させていただいたのですが、とても公平なジャッジをしていることを身をもって体験することができました。誰にでもチャンスはあると思います。人間的にもとても成長できるコンクールだと思うので、皆さんぜひチャレンジしてみてください!」

堀内さんご自身も若い34歳。将来の夢はありますか?

「もう一つ何か挑戦したいですね。他のコンクールなど出てみたいですし、ガストロノミーにとらわれず、ビストロもやってみたいです。ビストロのように気軽に食べられるフランス料理もいいですよね。作る側もいろんな圧力なく作れますし(笑)。音楽バンバンかけながら、お肉をドンと焼くだけとか!オーナーシェフになって好きなように作るのも楽しそうだなと思います。あとは、宴会調理もやってみたいです。」

そういえば、堀内さんはレストラン勤務ばかりですね。

「そうなのです、宴会調理ってやったことないんです。僕は飽きっぽいので、すぐ飽きちゃうかもですけど(笑)」

関谷シェフは昨年、日本人として初めて料理部門でM.O.F.(フランス国家最優秀職人章)を受章されました。堀内さんも挑戦してみたいですか?

「M.O.F.も挑戦してはみたいですけど、フランス語の筆記試験もあるので、それは嫌ですね(笑)。あとはM.O.F.の試験のために1か月近く渡仏するのが現状難しいですね。」

でも、まだまだ34歳。夢は広がりますね。

「はい!なんでも挑戦してみたいです。」

最後に、皆様にお伺いしている質問です。今までに「これは美味しかった!」と初めて感動した料理は何でしたか?

「どこのレストランかは覚えていないのですが、小学生くらいの時に大阪で食べたクリームソースのサーモンのムニエルです。とても美味しくて印象的だったのでよく覚えています。あとは、大人になってからはロオジエで食べたジャック・ボリーシェフのフォアグラのコンフィですね。これは最高に美味しかったです。」

料理長を務めているレストランにて、お客様のためにコンクールのテーマの料理を作成しているところ

◆堀内亮シェフ

京都府生まれ
2008年3月京都調理師専門学校上級調理科(現西洋料理上級科)卒業
2008年4月レストラン「パッション」
2008年6月レストラン「ロオジエ」
2011年11月マンダリンオリエンタルパリ レストラン「Sur Mesure Par Thierry Marx」
2012年9月マンダリンオリエンタル東京 レストラン「シグネチャー」
2014年3月マンダリンオリエンタルパリ レストラン「Sur Mesure Par Thierry Marx」
2016年3月レストラン「Regis et Jacques Marcon」
2019年10月パレスホテル東京 フランス料理「ESTERRE」 アシスタントシェフ
2020年10月第54回<ル・テタンジェ賞>国際キュイジーヌコンクール日本大会優勝
2022年5月第54回<ル・テタンジェ賞>国際キュイジーヌコンクール・アンテルナショナル優勝

現在、福井県にあるレストラン「ル・ジャルダン」料理長

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