Chemin du Gastronome
Les gagnants du Prix Taittinger Japon
コンクール・テタンジェの覇者たち

【第2回・前半】 中宇祢 満也 シェフ

Monsieur Michiya Nakaune

料理人の総合力が問われる最高峰の料理コンクール「<ル・テタンジェ賞>国際シグネチャーキュイジーヌコンクール」。

日本大会の優勝者にインタビューをする第2回目は、2001年第35回ピエール・テタンジェ国際料理賞コンクール日本予選で優勝し、パリの本選で3位になった中宇祢満也シェフです。昨年はフランス共和国より「フランス農事功労章 シュヴァリエ」を受勲されました。

1995年〜2000年、コンクールは国際規約改定のため日本予選は休止となり、6年ぶりに日本での予選が復活した2001年。

当時浦和ロイヤルパインズホテルに勤めていた中宇祢シェフは、これが最後のコンクールだと思いながら臨み、見事パリ本選への切符を手にしました。コンクールのことだけでなく、出身地である高知、最初に就職した大阪、その後浦和に移られた経緯などもお伺いすることができました。


「中宇祢」という名字は珍しいですねご出身はどちらですか?

「私は高知出身です。『中宇祢』という名字は自分の親戚しか知りません。高知といっても山のほうで・・・標高800mあたりにある町なので、冬なんて相当寒いですよ。膝から上まで雪が積もったら学校がお休みになったりして。スキーもできるようなところですが・・・私はできません(笑)。高知県観光特使も務めています。カツオのたたきが美味しいし、お酒は土佐鶴・酔鯨・船中八策・司牡丹なども美味しいし、いいところですよ。ぜひ高知に遊びに来てください!」

コンクール当時の写真を懐かしそうに眺める
中宇祢シェフ

料理人を目指したきっかけはなんでしょうか?

「高校時代はバンド組んでいたのです。ギターとボーカルをやっていて、そんな仕事ができればいいなと思っていたのですが、周りに猛反対されました。そんなもの金にならないからやめとけって。

そこで、中学生くらいから料理が好きでたまに作っていたので、料理人の道に進んだらどうかとみんなから言われたのです。料理は嫌いではなかったので、ホテルの本か何か読んだ 時に、そこには村上信夫シェフ(帝国ホテル第11代料理長)や小野正吉シェフ(ホテルオークラ初代総料理長)の料理が掲載されていて、これはすごいな、どうやって作るのかなと興味が湧いてきまして。和食とか日常見ているものは全然興味がわかなかったけど、見たこともないものだったから、自分で作ってみたいなと思うようになったのです。どうせやるのであればフランス料理をやりたいと思い、大阪の調理師学校へ進みました。高知だったので、だいたいみんな東京に出る前に大阪に行く人が多かったです。」

中高生の頃にもう料理をされていたのですね!何を作っていたのですか?

「中学生のときはサンドウィッチ作ってお弁当として持っていったこともあります。高校生の時はピラフやカレー、シチューを作っていました。でも作るといっても市販のルーを使っていましたし、全然大したことありません。」

大阪の調理学校からはどちらに就職されましたか?

「学校には1年ほど通って、大阪第一ホテルに入社しました。学校の求人は夏前に求人が終わっていており、私がホテルに就職したいと思った秋頃では求人はほとんどなく、面接を受けられるホテルがここしか残ってなかったのです。 面接では『野球やってたんだって?それなら合格!』と言われて合格しました(笑)。おもしろいでしょ?(笑) 」

堀田シェフは「初めて東京で食べたナポリタンがとてもおいしかった」と仰っていました。大阪に出てきて、これは美味しかった!と思うような料理はありましたか?

「あの当時、感動するものがたくさんありましたね。19歳で就職して最初に美味しかったと思ったのは、伊勢エビのグラタンです。昔は婚礼でよくあったテルミドール。伊勢えびの殻に詰めたグラタンです。当時はどこのホテルもベシャメルソースを手作りしていたからなおさらですよね。」

今はホテルでベシャメルソースを手作りするところは少ないのですか?

「人件費削減などを考えると、どうしても既成のものを使うことになってしまうのです。もちろんここ一番という料理の時は手作りしますけど、それを日常やるとなると人を抱えなければいけなくなってしまうのです。どのホテルもそこまで時間をかけることも難しい状況です。今は技術もいいし、何十社もあるからかなり美味しいところもあるのですよ。そういうものを使っていかないと利益を出すのは難しいのです。でも、たまに作らないと忘れちゃいますよ(笑)」

ベシャメルソースはフランス料理の基本中の基本ですね。作るにあたり何が大事でしょうか?

「家庭でも作れるベシャメルソースだけど、ちゃんと作るとなると難しいですよ。堀田シェフに聞いたら1時間くらいは語ってくれると思います(笑)ベシャメルソースは小麦粉の炒め具合と、牛乳を入れるときの合わせ方、これが非常に大事で、あとはしっかり練らないとコシがでません。何十回も作らないとわからないことだけど、ホテルだと一気に200人分は作らなければいけないから、本当に重労働です。」

大阪第一ホテルでは、何年くらい勤めていらっしゃいましたか?

「4年くらいだったかな?フレンチや宴会もやったけど、コーヒーショップを担当したこともありました。その時にちょうどプリンスホテルができて、守口プリンスホテル(現ホテル・アゴーラ大阪守口)がオープンしたので、それと同時に移りました。」

大阪第一ホテルから守口プリンスホテルに移られた後のお話をお聞かせください。

「1986年にここにいた13年間のうち、1年だけ大阪・京橋にあるTWIN21の最上階にあったVIPが使うゲストホールに勤務しました。当時は松下の課長さんや部長さん、松下幸之助さんが使っていたレストランでした。そして、このゲストホールの料理長が岸義明シェフだったのです。その後また守口プリンスホテルに戻って12年くらい勤めました。」

大阪で出会った岸シェフは守口プリンスホテル~新横浜プリンスホテル、そして1999年に開業した浦和ロイヤルパインズホテル(現;ロイヤルパインズホテル浦和)の初代総料理長となられました。岸シェフからのお誘いで浦和ロイヤルパインズホテルに移られたのですか?

「誘われたというか、『行きたかったら行けば?』みたいな感じでしたよ。そして、大阪から浦和に移る間に3か月ほどオーストラリアに研修に行きました。」

ヨーロッパではなく、オーストラリアに研修だったのは何故ですか?

「シドニーに松下が所有するビルがあり、そこの40階にフォーティワンというレストランがありました。朝から晩までお客様が入るようなレストランだったので、研修に行かないかと言われたのです。シドニーに1か月、その後、ゴールドコーストにあるロイヤルパインズ系列のホテルに移りました。オーストラリアンマスターズという女子プロゴルフの試合もやっているようなリゾートホテルなのですが、そこで1か月研修をしました。」

オーストラリアにて

浦和ロイヤルパインズホテルに入社して2年ほどでテタンジェコンクール日本予選を優勝しました。この時は6年ぶりの日本予選。コンクールはそれまでに受けたことはありましたか?

「守口プリンスホテル時代に2~3回受けています。当時テタンジェコンクールは決勝の前に準決勝があって、20代の時、1度だけ準決勝に進んで東京の服部栄養専門学校に来たことがあります。でも、準決勝で落ちてしまいました。準決勝に15~16人選ばれて、そのうち8人が決勝に進みました。あの時の課題が確か「ラ・プーラルド・アレキサンドラ」でした。すごく難しい料理です。ムース作って、ベシャメル作って、モルネソース作って、タルトレット作って・・・全部要素が詰まっているので、5時間以内に作るのはかなり大変かと思います。堀田シェフに『おまえらベシャメルを岸さんにちゃんと習ってこい!』と言われたのをよく覚えています。」

このコンクールはどのようなお気持ちで臨まれましたか?

「6年ぶりの大会でしたし、ぜひ出たいと思って応募しました。そして、これを最後にしようと思っていました。39歳までは受験資格はありましたが、1事業所に1人しか受けられないので、当時37歳の自分よりは若い子たちに挑戦してもらいたいと思い、受験資格を譲りたいと思っていました。」

この時の課題は
1、第1次審査(書類選考)に提出したオリジナル・ルセット
  2羽のバルバリー種カネットを使った料理
  2種のガルニチュールと1種のソース・サルミ添え、12人分
2、シェル・マカロニのグラタン
3、課題ルセット
  プディング・スフレ・オ・シトロン(審査当日の1週間前に8名に通知されます。)

の3つでした。練習などはされましたか?

「77名が応募をした予選(書類審査)を通った後、大阪にある同じホテルの系列会社の後輩が2人選ばれていたので、本選の2日前くらいから浦和でみんなで練習しました。その時に、この後輩たちには絶対に負けるわけにはいかない!と思ったのです。そして、課題のソース・サルミを各自練習で作ってみたらみんな仕上がりが違いました(笑)。ほかの二人のを見て、自分のイメージとは違うものなのかなぁとも思ったりしました。とにかく、ソース・サルミはフォンとワインのバランスと煮詰め具合が大事なので、何度も何度も作って練習しました。最後レバーをモンテするイメージとか仕上がりなどを大事にしました。」

コンクールの審査員と決勝に進んだ8人
(所属は当時のものです。)

当日は、どうでしたか?

「(当時のリリースをみながら)決勝に残った8人は後輩2人を含めてほぼ知り合いばかりでした。私がムースを一生懸命作っているときに、『お手洗いに行ってもいいですか?』という人もいて(笑)。鴨やって、グラタンやって、スフレ作って、ソース・サルミでしょ。これを5時間やるのがけっこう大変だったのです。あとはグラタン・・・これもベシャメルだね(笑)。 1週間前に通知された『プディング・スフレ・オ・シトロン』も作ったことがなかったので難しかったですね。背水の陣のような感じで挑んだので、ものすごいエネルギーを使いました。ただ、ほかのコンクールなどで3~4回この学校での実技を経験していたので、冷静にできましたね。1回目や2回目だったら動くだけで終わってしまっていたと思います。場数は大事ですね。」

日本予選決勝で調理する中宇祢シェフ

そして、見事優勝されました

「思い切りやりきって、すごく疲れました。決勝の会場である新宿の東京調理師専門学校(現;東京調理製菓専門学校)1階にあるレストラン経営実習室という場所で授賞式が終わったあと、道具を運ぶのに手伝ってくれた仲間と飲んだビールは最高に美味しかったこと!!」


インタビューの後編は、パリ本選での体験や、浦和ロイヤルパインズホテルからホテルインターコンチネンタル東京ベイへ移られた後のエピソード等をお届けいたします。(後編はこちら)

◆中宇祢 満也 シェフ

2001年フランス料理の世界大会「第35回ピエール・テタンジェ国際料理賞コンクール」にて世界第3位を受賞。
高知県の観光特使も務め、食文化のすばらしさを伝える活動も行っている。

【経歴】
1963年 高知県出身
1983年 大阪第一ホテル入社
1986年 守口プリンスホテル入社
1999年 浦和ロイヤルパインズホテル レストラン「アールピーアール」シェフ
2003年 浦和ロイヤルパインズホテル  総料理長就任
2018年 ホテル インターコンチネンタル 東京ベイ 総料理長就任

【受賞歴】
2001年11月 第35回ピエール・テタンジェ国際料理賞コンクール2001 世界第3位受賞
2012年11月 日本食生活文化財団 銀賞受賞

【活動】
・日本エスコフィエ協会 理事
・フランス料理日本アカデミー日本支部会員
・トックブランシュ国際倶楽部 東日本地区 副委員長
・日本ラ・シェーヌ・デ・ロティスール協会 会員
・レ・ザミ・ド・キュルノンスキー日本支部会員
・クラブ・プロスぺールモンタニエ 日本支部会

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